昭和51年07月22日 朝の御理解
御理解 第71節
「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにはゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」
どんなに見やすうにも頂けるし、大変難しゅうにも頂ける御理解ですね。今日は難しい方を聞いて頂きます。昨日秋永先生がお参りをしてきてお届けを致しました。お夢の中に合楽で鯉を分けてやるから入れ物を持って来いと、ポリのバケツがよいというお知らせを頂いた。私はそれを聞かせて貰いながら、例えば最近言われる、昨日まで言ってこられた太くなるとか有り難くなるとか、と言う様な信心をさせてもろうて、やっぱり太くなりゃあおかげも大きい。
または有り難くなれば、真に有り難いという心すぐみかげの始めなりと言うみかげが始まる。だから有り難うならせて頂くとか、大きくならせて貰う太らせて貰うということは、大きなおかげを頂くためにはどうでも太うならにゃいかん、もう一回り二回りというように太くなっていかなならん。昨日の昼の御理解の中に、有り難い心を態度で示せ、太くなれ大きくなれ、死んだ気になれという歌があるね。
私はこの死んだ気になれというとこです、太くなるとか有り難くなるということはおかげの世界。いうならば即身成仏その身そのままが、例えば助かられるんだとお願いすれば。おかげは受けられるんだけれども、それはどこまでもおかげの世界。いうなら力の世界、光りの世界、私はこの辺の力とか光りとかというものを、御神徳と言う風に一緒に混合しておったように思うんです。実は違うのです。信心のいうなら力を持った人がおると家の中でも心強い。
信心の有り難いという人がおりますと、その辺が明るうなるような感じが致します。おかげがのおかげがのと言えれるような人が傍におると、本当に明るうなるです。けれども御神徳とは違うということを、昨日秋永先生の御夢のお届けを聞かせて頂きながら思わせて頂いた。合楽でお徳を頂くからそのお徳を頂きにいけと、そしてポリのバケツを持って行けということ、もちろん鯉ということは、御神徳ということをここでは言われます。海の物がおかげなら川のものは御神徳。
その川のものの中でも鯉の御徳というのが最高だと、いうふうに言われますが、その徳をやるから受けものを持って来い、しかもポリのバケツを持って来いとこう言うのです。私は昨日皆さんにも、皆さんは段々力を受けて来られた、いうなら心に光りも頂いてこられた、けれどもそれはおかげの世界だけを照らしたり、力を持って人が百斤しか持てないものを千斤も持てるようなおかげを頂くのですから、人が百斤おかげ頂く時には自分は千斤のおかげを頂くという力なのです。
御神徳を受けるということは、私は今日の御理解を難しゅう頂くならばです、まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけということです。まめな時何んでもない時、いうならばあれもおかげこれもおかげで、有り難い勿体無いがやはりお参りをさせてもらい、いよいよ御教えを拝聴させてもらい、信心の稽古が唯々楽しゅうて有り難うてということなのです。まめな時健康な時と言う事は、何んでもない別に神様にお願いせんならんということがないほどしの、おかげを頂いておる時ということ。
平穏無事な時にしっかり信心の稽古をしておく、これは不思議です。心の中に悩みがあり苦しみがありこれば頂かんならんという時はね、その事だけが心に一杯ありますから、どういう話を頂いても入ってこない不思議に、ちょこっとばっかりしか入らん。ただ耳だけではぁ成程と言うて耳が肥えるだけです。はぁ合楽の御理解は素晴らしいというて耳が肥えただけでは、いうならば光りになり力にはなるかもしれませんけれども、お徳にはならない。
真は力なり、真は光りなりと言った様な事を言われた方があります。確かに信ずるということは光りであり力なのです。けれども信じられるということ、神様から信じられるということは、これは光りでもなからなければ力でも、勿論その中にありましょうけれども、力もあり光りもある。それに神様の御信用が頂ける。お徳の世界。例えばここに警察官の人がおります。まぁ言うなら悪い事をした人を取り締まったり、又は捕まえて牢屋の中に入れたり、それは言わば役目です。
だからその警察官の人が悪い事をしたんでは警察官の値打ちはないです。中にはおりますね、警察官でいわば職業を乱用するというのがありますけれども、とにかくいうなら普通のもんよりか、やっぱり立派ないうなら普通の法則に従ったいき方をしなければ、警察官とは言えんと思う。また警察官ならそういう教育を受けると思うんです。こういうことをすれば罰になる、こういうことをすれば取り締まられる、こういうことをしたら罰金を収めんならん。
そういうことを十分知っての事ですから警察官の人は悪い事は出来ないと思うです。私は最近その身そのままが助かられるということは、なら法則に従わず法則に反したような人であっても、もうそのままおかげは下さい頂けれるという風に説きますね。けど私今日改めてです、それはおかげの世界ではあっても、光り又は力の世界は頂けてもです、お徳には繋がらないということ。お徳はやはりいうならば、ポリのバケツをもってこいというところが私はそういう風に感じたんです。
ポリと言うでしょ警察官の事を、何と言うかね(ポリスという声あり)ポリスというか、ポリス、ポリとも言う、私はそれを聞いた時にそう直感したんです。ははぁもう秋永先生は普通の者のような助かり方ではだめだなということです。もういうならお道の教師としてというか、取り次ぎ者としてという位の御神徳を受けなければ、信徒会長としていけないためにはです。鯉をやるからポリのバケツをもってこいと、神様がおうせられたということがはっきり分かってきたような気が致します。
だから皆さん御神徳を受けるなら、受けたいならポリのバケツを持って来にゃいかんです。ただのバケツじゃいかん。いうならです天地の道理を解かしてもらい、天地の道理におうた生き方をさせて頂く事を、先ず身をもって自分が示していけるようなおかげを頂かなければいけないということです。その御神徳を受けると言う事は、神様の御信用を受けると言う事は、やはりそのくらいなおかげは頂かなければならない。
そこで私は今日、皆さんに太くなれ、大きくなれということで、ここは凝りを積ませんですみますという意味でしたけれど、なら最後に死んだ気になれと、今日の御理解にあるところの死んだ気にならないとです、自分が改まろうにも改まれない難しさがあるのです。死んだ気になる時にです、もう自分のなら汚いめぐりも一緒に死んでしまう。だからそういういうなら死んだ気で、我情我欲も取れてしまうでしょう。
これだけは家のめぐり、これはもうガンのごたるもんちいうても、いくらガンでも死んでしまう時にはもうしまえてしもうとる訳、そこから再出発。それは私の信心をずっと振り返ってみましてもです、ただおかげおかげの信心が何十年いうなら続いた。引き揚げて帰って来る次々に難儀な事が起こって来るに従って、これは今までの信心ではいけないことが分かった。それで本気で真の信心を目指させて頂くようになったら、その今までわからなかった事がどんどん分かってくるですね。これは不思議です。
我情我欲をとって今までの信心をいっぺん清算してしまってです、そして真の信心を分からせてもらおう、今までの信心は間違いであったと気づいて、いわばそれこそ新たな心で、真の信心をということになってまいりましたら、今までの信心の間違いも分かってくるが、真の信心というものが段々分かってきた。一番始めは親を大事にしたい、親に喜んでもらいたいの一念、それが肉親の親よりも教えの親がある事に気づかせて貰うて、親教会もう一点にしぼっての信心。
真の信心が段々分かって来たら、これは教団のということ。今の教団であのう教祖の神様の時代のような、あらたかなおかげが受けられるようになって来ている、そういう時分の教団に私がそういうものを気づかせて頂いて、それこそお恐れながらです、いわば教団のいわば天地につながるおかげの受けれる、百年もたつ間にゃ言うなら立派な道があったけれども、もうおう崩れてしまっておる。
もうトラックのごたるとは通られんごつなっとる。やっとかっとで人間が一人で歩いていく位な道しかならんほどに、なっておるということを気づかせて頂いて、これはひとつ本気で道普請のおかげを、私が頂かんならんと言った様な、まぁ大それた考えかもしれません。けれどもまた殊勝と言えば殊勝かもしれません、そういう信心にならせて頂いた時が、私は始めて死んだ気でじゃったのではなかろうかと思います。「死んだ気で励め、徳も頂ける人も助かるようになる」。
という自分自身の助かりではなくて、人の助かるような道がその時分から開け出してきたという感じが致します。先日ある教会に御参拝になっておられる、そうとう遠方からですけど毎日昼の信行に通うて見えられる方がおります。ここにお参りをするようになったら毎日のように御神夢と思わなければおれないお夢をずっと頂いておられます。昨日一昨日でしたか、そのうゆっくりでは出来まあせんでありましたがずっと読まれました。夢を書いてあるわけです。その方の教会で今度御造営が始まった。
けれども何か今度本当の事が分かりだしたら、今までだったら一番口にそのう会合があって、こう割り当てがあった。だからその一番の割り当てを私がおかげ頂こうと言いたいようなもののを持っておったけれども、合楽にお参りをしだしたら、あのうこれはほんなこつじゃないと言う事が分かって来た。だから下ばっかり向いてから、その会合を聞くだけだったというておられました。それがどう言う事かというと、そのお夢をねご飯があるおつゆがあるけれどもおつゆの中に身が入ってない。
だからその身を自分が入れてあげるというところであった。いうならば身もないのにままになろうとしておると言う事であります。身のないいうならば御造営なら御造営ということをです、神様が思い立たれるのではなくて、先生が思い立っておられるということ。だから信者に割り当てまでをせんならんということになってくるわけです。身もないのに始めてある、そういうお知らせを頂いておられますから、その話に参画するという気持ちが何かこううすい。
まぁそれでも合楽で教えを頂いておられますから、その中にその教会でお便所にやられた。ところが何べん行っても中に黒衣をつけた、木綿の黒衣をつけた人がちゃにんとこうやって、便所を使用しござるというお知らせを頂かれました。皆さん分かられるでしょう。お便所ということは御結界と言われております。その御結界に座っておる人が、自分が用を足す為だけに、ここに便所の中に入っておるから、他所もんなさぁ便所に行こうかと思うて慌てて来ても、いつ来たっちゃ入ってござるから入られんというのです。
今ここで熱心に神愛会に毎月通ってみえます、行橋の行橋教会の井手先生という方がおられます。中々女の先生ですけれども、教学肌の先生で頭のよい先生です。ですからこの霊徳とか、そのうなんかということは全然信用しないタイプの先生です。ところがここで信徒共励会がある時、そこの総代さんがここに一夜講修会の時にここにやってまいりましておかげを頂いて、もう強引に先生を一辺合楽に行って下さいというて、その総代さんが連れてきました。それがまぁやみつきですここへ毎月通うてこられる。
そしてその来た時まではです、例えば御神夢とか御神願とかと言われるような事がピンとこなかった。ところが帰られたらすぐそのう、はぁこげんとが御神夢じゃろうかというお夢を頂かれた。だから私ではなくて末永先生宛にこまごまと手紙をよこしておられます。それでその事を先生にお伺いしてみてくれ、もう箇条書きに頂いた事をずっと書いてある中にです、私いわゆる井手先生が船に乗っておられる。そして海に漕ぎ出しておる。ところがその船には自分の屋材家財が一杯積んである。
タンスとか長持ちとか。自分がようやく一人乗れておる。ところがそのう波風が出てからこう波が揺れ出した。揺れ出したところが中に乗っておるタンスやら引き出しがこうこうなるもんだから飛び出してしもうた。そこでこれを一生懸命こうやって押さえているお夢を頂いたというんです。いうなら〇〇教会というお徳の船に自分も乗っておるけれども、自分の屋財家財を一杯乗せとるけん信者の乗るところが全然ない。
徳の船を頂きながら、また自分の事柄ばっかり自分の娘の事やら、自分の息子の事やらばっかりいろいろ書いてございましたが、自分の家財道具だけを入れておるからしかも平穏無事な時には、まぁいいようなもんですけれども、少し波がこうやって高くなって来たら船がこう揺れる。だからタンス品だけがこうして海に飛び出していこうようにあるから引き出しを一生懸命こうやって押さえておる。もう人のことだんしてやるところじゃないということ。お道の信心は人が助かる事さえ出来ればというのですから。
なら今のそのう昨日一昨日聞かせて頂いたその方のお夢もやっぱりそうです。御造営が始まっておる。それは神様が始めなさるとじゃなくて、先生が始めてござる。しかも身もないのに力もないのに始めようとしておる、ままになろうとしてすおるということがです、神様のきかんにいうならばかなわんことであり、それでは無理がいくということになります。お便所に行きたいと思う。いわゆる御結界でお取り次ぎを願おうとするけれどもです、先生の自分自身の心配の事で精一杯だから、もう信者のことなんかはもう上の空というような風にしか、お取り次ぎが出来んのじゃないでしょうか。
そういう意味でです今日は皆さんがね、その取り次ぎ者としてのお徳を受ける話をしているわけです。秋永先生のそのお夢の中からです、いうならば太くなるとか有り難くなる事によっておかげも太くなるでしょう。有り難いにおかげが伴うというからおかげは受けるでしょう。けれども御神徳を受けるということは、平穏無事な時まめな時ここへ参って、信心の稽古をしておけという、自分というものがカラッポになるお願いする事ない、頼む事ないけれども信心が分かる喜びということを楽しみにここに参ってくる。
もう今まで分からなかった事がどんどん分かって来る。そして御神徳に触れさせて貰い、御神徳を頂かして貰おうと言う様な信心意欲も出来て、それこそスイカの修行もいとわんと言う様な信心が生まれて来る。そこから神様の神の目にに止るという、神様がいうならばおかげをお徳を下さる働きが始まる。いうならば信徒会長である秋永先生に第一号としてです、神様が御神徳をやろうごとしておられる事が分かります。そのためにはあんた普通の受けものじゃいかんぞ、ポリのバケツをもってこいとこう仰る。
普通のものならいかんぞ、いうなら警察官になったごたる積りで、いうならば法則の一つも勉強して、いうなら六法全書の一つも勉強して、こげんすりゃ罰になる、こげんすりゃひっかかると言った様な事を体得して、それをなら人の手本になるような警察官で悪い事は出来ない様にです、そういうことのない真の信心を分からせてもらう手立てをです、神様が信徒会長に求めておられるという感じがいたします。お道の教師だからみんなお徳を受けるということではありません。
今の井手先生の場合だってです、自分の屋財家財というのはもうほうからかしといて、この船に一杯乗れるだけの難儀な氏子を乗せて、思う港につかせてやるという責任を、お道の教師が考えなければならない。普請なんかどうでもよい、神様の思い立ちなさる時にこちらがついていくと言う様な気持ちになってです、身もないのにままになろうとするのではなくて、まず実を頂く身を頂く。いうならお徳を頂いて、おのずと出来るお広前と言った様な事に願いを換えさせて頂いたら、人も助かるで事あろうというのです。
だから今日は二人の教会の二人の先生のお話しを聞いて頂いて、いうならここでは銘々もやはり御神徳を受けさせて頂かなければ、今日はこの71節をみやすう頂かれん。みやすう感じさせて貰える御教えですけれども、これを難しゅう頂くならばです、まめな時ここへ参ってというのです。信心がなくてもおかげを頂いておる人は沢山おります。そういう人達がです、もし本当の信心を目指したらお徳を受けるでしょう。頼む事もないから、ただ信心の稽古に一本になるから全部がここに入ってくる。
普通のものは難儀苦労、あればどうでんこうでん、もらわんならん頂かねばならんということで心が一杯ですから、もう神様がどういうよい御教えを下さってもそれが一杯入らない。だからそれが一杯入らせて頂くおかげを頂くためにです、私共が太くなる事、有り難くなることともういっちょです、もう死んだ気でというような心の状態を開かせてもろうて、そして信心が入ってくる信心が頂けれる。そういう姿勢を頂かなければとらなければいけない。
だから死んだ気になるという時にです、今までこれはどうにもできないと思うておったガンのようなものでも取れるのです。そしてこれは私自身のことを思うのにです、確かに引き揚げて帰って来てだんだん自分の事から人の事、人のことから教団の事、世界中の助かりの事を思わせてもろうて、そういう素晴らしい道づくりの、おかげでも頂かしてもらおうと言う様な、心の状態が開かれて来たということはです、言うならば私の心の中に真の信心が、これは今までの何十年の信心では駄目だったという。
そこに気が付いて新たな信心の新出発をしたところから、おかげが頂ける様になってきたということであります。ですから昔の私を知った人が「あぁ大坪さんな、あやんとはもうろくなやつじゃなかった。」と言うかも知れません。けれども一度真の信心を目指してからこちらの私の生き方はです、もうそれこそ神様ちゃあげなふうじゃろうと言う様な在り方に変わったという事実なんです。私も自分でも自分の心にびっくりするくらいに、おかげを頂いておるということなんです。
それはやはり死んだ気での信心が出来たからなんです。そしてなら人がお徳を頂こうといやあ、お徳を分けてあげられる、人がおかげを頂こうといやぁ、そういうお取り次ぎをさせて頂ける様な道が、だんだん開けて来たということです。皆さんもどうでもお徳を受けるために、ポリの受けものをもって一つお徳を受けて頂きたい。それにはめな時信心の稽古というようにです、もう本当に自分の事は頼まんでもよいくらいな、一生懸命の思いでです、人が助かることのための信心でも出来る様になったら。
さぁ今日からという訳にはまいりません。けれども成程今まで頂いてきた光りとか力とかいうのと、御神徳の違いを聞いて頂きました。そしていよいよ御神徳のおかげを頂かしてもらわんならんと言う様な意欲がでた時にです、もうおかげは第二、第三の問題であって真の信心を頂かせてもらおうということに思いが変わったときに、神様のいうならば目がそこに止まる事になるのじゃないでしょうか。そこからそれこそ只々楽しいばかり、有り難いばかりの信心が、どんどん身についてくるということにもなるのですよね。
どうぞ。
別の御理解?
身もないのにままになろうとしておる時にです、その御汁の身も入ってないのにね、自分が大根を刻んで入れているところをいただいた。大根というのは大きい根と書いてある。だからそういう縁のある教会が本当に助かられるためにも、合楽で一つ大きな根のね、大きなおかげをいただいて、そして本当に先生が二代親先生になられる祈りこそ今合楽に通うてこられる目的ということになったら素晴らしいことでしょうね。大根の身を入れておられるところをいただかれた。私はやっぱり身のないものがです、ね、色んなことでもなさねばならない時には、文雄先生が車を買いますとだんだん大きくなっていきますね、大きくなっていきますとそれだけの車に乗る資格はないというて何ビャッキロなら何ビャッキロだけは神様にお供えしてですね、その【】が始まるでしょうが。ね、自分に身もないものをとったら、それをカバ-していくというか、その身をいただく信心がやっぱり必要だということですね。